第135話 誰もいない運動会

  • 2021.09.09
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TOKYO 2020の全日程が終了しましたね。個人的には競技種目の中にたまたま好きだった自転車ロードレースがあり、今シーズンならではの1レースとして楽しませて頂きました。もちろんその他の競技が生み出すドラマにもたくさんの興奮や感動がありました。また大会の開催そのものにはたくさんの反省材料があったようにも思いました。時折、「五輪はやって運動会は中止!?」なんていう類の話を聞きます。五輪は多くのリスクを背負ってまで開催したのだから、子供たちの運動会やその他の催事もむやみに中止したりせず、少しでも安全に楽しく開催するとしたらどんな方法があるのか前向きに考えて欲しいなって思います。
「夢、夢のあと…」
と、今じゃそんなこと言っていますが、子供の頃の僕はとにかく運動が大の苦手で、体育の授業も休み時間のドッジボールも結構苦痛でした。だから運動会もあまり好きにはなれず、楽しいと思ったことはほとんどありませんでした。まあいくら好きじゃないと言っても、忘れてしまいたいほどではありませんが。いや、正直に言うと運動会に関するほとんどの思い出はもはや忘却の彼方へと追いやられてしまいました。何十年も前のことだし。でもそんな僕にも一つだけ、決して忘れられない運動会の思い出があります。
「鉄棒の逆上がりが出来るようになったのは、クラスで最後から2番目でした。」
それはたしか小学2年生か3年生のある朝のこと。眠っていた僕は突然母親に叩き起こされました。目覚まし時計が鳴らなかったとかで、急がないと遅刻してしまう!と言って。母は「ごめんね!ごめんね!」としきりに詫びつつ身支度を手伝ってくれ、僕はいつも通りランドセルを背負い慌てて家を出ました。既にみんな登校したのか他の児童はもう見かけず、僕は一人で学校へと向かいました。時間の縛りから半ば外れかけた状況にどこか自由を感じたのでしょうか、気分は妙に清々しく朝日さえ眩しい感じがしました。道端を掃除していた見知らぬおばさんから「あら、早いわねぇ」と声を掛けられました。ちょっと気まずい思いがして、曖昧に挨拶を返しました。
「当時、家から学校まではおよそ1.4km。子供の足だから片道25分くらいだった記憶。」
そして校門に辿り着いた時、僕の目に飛び込んできたのは異様な光景でした。そびえ立つ紅白の入場門、きれいに引かれた徒競走の白線、役員と放送席のためのテント…。そうです、今日は運動会の日だったのです。それだけではありません。なぜか校庭にも校舎にも誰一人として居ないのです。ふと校舎の時計を見ると、時刻はまだ6時台。僕は遅刻どころか朝早過ぎて、まだ誰も来ていなかったのでした。事態を飲み込んだ僕は一旦帰ることにしました。家に帰り着くと母は「ごめん、ごめん、時間勘違いしちゃったよ!しかも運動会だったよね!」と言いながらお弁当を作っているところでした(笑)
「誰もいない学校ってだけでも非日常感がありますが、遅刻したと思って着いたら誰もいなくて、運動会の会場になっていた衝撃。笑劇か?」
遅刻どころか朝早過ぎで、着いてみたら誰もいない運動会の校庭。そりゃあ空気が清々しいはずです。朝日が眩しい訳です。「早いわねぇ」と声を掛けてくれたおばさんは、遅刻への皮肉ではなく本当に早い時間だったことへの純粋な反応だったのでした。“運動会を控え、朝日に照らされ静まり返った無人の校庭”という光景は、今でも決して忘れることの出来ないものです。当時はビックリするくらい忘れ物ばかりしていた子供でしたが、運動会を忘れたことは我ながらショックでした。そんな僕は今では人の名前やら地名やらがなかなか思い出せず、アノ人だとかアノ場所なんて言い方で日々お茶を濁しております。うーむ、コーヒー屋がお茶を濁すって、なんだかなぁ(笑)
「ちなみにその日の運動会は無事に参加して、親もお弁当持って来てくれました。めでたし、めでたし。」


この記事へのコメント

めでたしめでたし~良かったです。

だあきち

お母様のうっかりミスがほほえましいですね!

江戸っ子

私も小さいころは運動が苦手で、運動会のバトンを繋ぐリレーで、バトンを受け取って、コースとは反対方向に走って行ったという  もはや運動神経と言うよりは、頭も悪いって言われているぐらいの 運動音痴でした。それでも、高校生になると、学校の代表として陸上競技に参加できるようになりました。運動とウッカリミスは 大人になると 変化するものですよね♪

ほな

調布飛行場近くが出発点でした。

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